デリバレイティブ映画観

~ゆるやか映画感想・随想ブログ~

『日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで 』(中公新書) 磯田道史

読書はいくつもの感覚を刺激してくれるから好きだ。

先日読み終えたこの本も、そんな楽しみを与えてくれる一冊だった。

 

 

タイトルの一冊は2017年10月に発売された歴史学者・磯田道史氏のエッセイ集で、

磯田氏と古文書の出会いから生まれた様々なエピソードが収録されている。

 

現在の岡山県である備中松山藩を立て直した山田方谷儒者・中根東里と司馬遼太郎の不思議な縁など、

古文書という一次史料に直接あたるからこその発見は、

歴史好きにはどれも興味深いものばかりだ。

 

そうしたエピソードの一つに、浜松の「もちかつお」があった。

「まるで鰹が生きて海を泳いでいる時のような肉質の刺し身で、モチモチした食感がたまらない。」

と文中で表現される希少な鰹は、

浜松の初夏の風物詩として親しまれているそうだ。

 

私は大いに食欲をそそられ、舌の落ち着かないまま文章を読み進めていったが、

その「もちかつお」は浜松でしか食べられないという。

朝獲れた「もちかつお」は深夜にはその食感が失われてしまうのだ。

東京につく頃には変哲のない鰹に戻っている。

 

容易には手に入らないと聞くと、食欲はなお一層元気に体内を駆け巡る。

流通技術の進化を活用してもちかつおを提供している店をすぐに検索してみたが、

人類はもちかつおをどこででも食べられるほどには進化していなかった。

 

だが、もちかつおへの渇望が消えたわけではない。

次に浜松を訪れるその日まで、この渇望は満たされないのだ。

それまでは、この渇望に目隠しをしなくてはいけない。

 

そう思ってさらに文章を読み進めると、

徳川家康も浜松の鰹を愛好していたということが書いてあった。

だが、鰹は鰹でも、家康が好んで食したのは鰹の塩辛らしい。

 

塩辛も「もちかつお」に劣らず魅力的である。

私は「もちかつお」への渇望を、ひとまずは鰹の塩辛で塗り隠すことにした。

 

この応急処置が有効なうちに、初夏の浜松を訪れようと思う。

浜松を経由して、長らく行っていない京都を目指すのもいいだろう。

「もちかつお」からくずもち、阿闍梨もちへ、

もちのはしごもまた一興である。